2010年03月22日
南無阿弥陀仏
祖母は、先日2月25日で90歳になりました。
家は浄土真宗で、毎朝毎晩、お仏壇の前でお経(正信偈)
をあげるのが祖母の習慣でした。
小学生の頃は、毎週日曜日に近くのお寺の日曜学校に
通っていました。
小5の夏休みには、みんなで本願寺にご奉公にいって、
帰敬式(おかみそり)を受け、法名をいただいています。
(当時、全く意味を分かっていませんでしたが・・・
)
家は浄土真宗で、毎朝毎晩、お仏壇の前でお経(正信偈)
をあげるのが祖母の習慣でした。
小学生の頃は、毎週日曜日に近くのお寺の日曜学校に
通っていました。
小5の夏休みには、みんなで本願寺にご奉公にいって、
帰敬式(おかみそり)を受け、法名をいただいています。
(当時、全く意味を分かっていませんでしたが・・・

そんなこともあって、僕は仏教を身近に感じています。
前回、「感謝する」ということについて書きましたが、
浄土真宗の
「南無阿弥陀仏」
という言葉も、阿弥陀様への感謝の気持ちを表した言葉です。
「こんな自分でも、阿弥陀様は救って下さる。
阿弥陀様に身を任せれば良いのだ。
なんとありがたいことだろう。」
という気持ちです。
だから、それに甘えていればいいということではなく、
最後の最後には、きちんと救われるという安心感があるからこそ、
いろんなことにチャレンジし、
人生のあらゆる苦難に立ち向かっていく勇気が出る
ということが、お念仏を唱える意義の一つだと思っています。
いろいろなことにチャレンジする子どもと
それを見守る母親のような関係にも思えます。
もしかすると、チャレンジの力が弱いときって、
目に見えるものしか信じられないことが
原因なのかも知れませんね。
お念仏を唱えていると、いろいろなことに感謝の気持ちが
湧いてきます。
ご先祖様から、脈々と受け継がれてきた「いのち」のこと。
いろいろなめぐり合わせ。
自分ひとりで生きてきたわけではないことを思い出させてくれます。
食べること、水を飲むことだけをとっても、
人間1人の力ではできないことに気付くと、
自然と、感謝の気持ちでこころが満たされてくるのです。
おかしな新興宗教や宗教をめぐる争いのせいで、宗教が
誤解されているように思いますが、僕は、宗教って大切
だと思います。
ちなみに、仏教は、宗教というより、哲学だと思います。
死んだ人のためのものではなく、どのように生きるべきかを
お釈迦様が説かれたものだと思っています。
お仏壇がある家で育って、本当に良かったなと思います。
前回、「感謝する」ということについて書きましたが、
浄土真宗の
「南無阿弥陀仏」
という言葉も、阿弥陀様への感謝の気持ちを表した言葉です。
「こんな自分でも、阿弥陀様は救って下さる。
阿弥陀様に身を任せれば良いのだ。
なんとありがたいことだろう。」
という気持ちです。
だから、それに甘えていればいいということではなく、
最後の最後には、きちんと救われるという安心感があるからこそ、
いろんなことにチャレンジし、
人生のあらゆる苦難に立ち向かっていく勇気が出る
ということが、お念仏を唱える意義の一つだと思っています。
いろいろなことにチャレンジする子どもと
それを見守る母親のような関係にも思えます。
もしかすると、チャレンジの力が弱いときって、
目に見えるものしか信じられないことが
原因なのかも知れませんね。
お念仏を唱えていると、いろいろなことに感謝の気持ちが
湧いてきます。
ご先祖様から、脈々と受け継がれてきた「いのち」のこと。
いろいろなめぐり合わせ。
自分ひとりで生きてきたわけではないことを思い出させてくれます。
食べること、水を飲むことだけをとっても、
人間1人の力ではできないことに気付くと、
自然と、感謝の気持ちでこころが満たされてくるのです。
おかしな新興宗教や宗教をめぐる争いのせいで、宗教が
誤解されているように思いますが、僕は、宗教って大切
だと思います。
ちなみに、仏教は、宗教というより、哲学だと思います。
死んだ人のためのものではなく、どのように生きるべきかを
お釈迦様が説かれたものだと思っています。
お仏壇がある家で育って、本当に良かったなと思います。
Posted by 濱野彰彦 at 02:34│Comments(0)
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